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赤ちゃんと遊びつつ人類を思う

2015.06.09

生まれたばかりの赤ちゃんとコミュニケーションをしていて、その普遍性に思いを馳せていた。赤ちゃんは言葉は話せないし、そもそも、コミュニケーションの取り方すらよくわからない。大人が情報交換するときの「文法」を知らないからだ。
 そんな赤ちゃんであるけども、親子でコミュニケーションができる。泣いたり穏やかだったり、それだけなんだけど、赤ちゃんの感情を読み解いて理解して、適切な対応をしてあげようとする親の心に、なにかルールが組み込まれているようなのだ。

 おそらくそれは遺伝的に受け継がれている「文法」で、泣き声の音色やアクセント、タイミングなどに手がかりがあるのだと思う。そしてその文法は、世界中の言語も文化も外見も異なる人類みんなで共通なのだろうと思う。人々は分かり合える、という主張があるのだとしたら、その根拠の一つは赤ちゃんと親のコミュニケーションが同じだからというのがあるかもしれない。
 本能的な感情、報酬や嫌悪は人類に共通だと思う。だけど、三大欲求を考えてみても、それが世界や過去と未来で共通だったかというと疑わしい。ご飯を食べて美味しいというのは、調理法の進化や安全性、野山や自然をコントロールした今が昔と同じとはとても思えない。住宅や睡眠も同様に大きく様変わりしている。恋愛や性欲は社会的文化的影響が極めて大きく、言うまでもなく人類共通ではない。
 赤ちゃんとのやりとりで、どのような行動を取るかというのは、たしかに文化によって異なるかもしれない。外国で子育てをした体験記を読むとそれが如実に書かれている。それでも、泣いた赤ちゃんに注意が向くこと、母乳を与えて、それがうまく与えられなかったりして母子ともにクスンクスンしたりするのは、時代を超えて共通の体験なんだろうと思う。

 そう。今現代を生きている世界中の人々というだけでなく、過去にさかのぼって、人類の文明の記録が残っている数万年の範囲を考えても、おそらく赤ちゃんとのコミュニケーション文法は同じだったと思う。はるか昔の人がどのような暮らしをしていたか想像もできないけれど、洞穴や木の上で暮らしてたころも、赤ちゃんはきっと同じ泣き方をしていたと思う。いわゆる原始人のような暮らしをしていた大人たちに、今もし会うことができたとしても、コミュニケーションを取れる自信はないけれど、きっと赤ちゃんの泣き方は同じだし、それに対する大人の感情やリアクションは似ているんじゃないかなあと思うと、人類の歴史や世界中に一体感を感じられて、少し心地よい。
 人類は文字を発明してたかだか1万年程度で、それなのに脳の機能構造を変えてしまうぐらいの強い教育バイアスがあって、そしてその文字でのやりとりが苦手な私は毎日のように泣かされている。文字が無かった時代のコミュニケーションはもっと単純で、本能的で、双方向で、リッチなものであったのだろうなあと思うけど、それを想像したところで現在の自分の生活を変えることもできない。ところが、赤ちゃんとのやりとりはそれを実体験させるものだった。

 初めて子どもができると人生観が変わるよ、生まれた瞬間に何かスイッチが入るよ、なんて話を聞いていて、だけども自分の場合初めて赤ちゃんに会ったときも、別にまあ、そこまでの衝撃はなかった。かわいいね、弱々しいね、何かしてあげなきゃね、というどちらかと言えば第三者的な感覚だった。というか実際は、想像以上に大きくて驚いたとか、血液や体脂がついているんだなあとかディテールの記憶のほうが多かった。
 人類に共通、といってもそれは赤ちゃん側に立って考えた場合であって、親の立場となって子とのやりとりを体験できた人は限られた人だ。少子化、晩婚化、生涯未婚で過ごす人が一般的になった現代。あるいはひょっとしたら、婚姻率・子持ち率が高かったというのはここ最近100年ぐらいの話で、人類の歴史上それほど高くないものなのかもしれない。すると、子どもを持って体験できるというのは、人類共通の体験というにしてはずいぶんと限られたものなのかもしれない。子を持つ親の傲慢さというか、自信にあふれて周りが見えていない様子にこれまで辟易してきたことを思い出す。偶然結婚できて、たまたま子を授かっただけなのだから、あまり考えを一般化しないようにしたい。

この4月6日に、初めての子どもが生まれました。女の子です。

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