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「グダグダとしょうもないことを量だけ書き連ねることに意味はあるのだろうか?」

2009.10.27

と日頃思っているのだけど、(いつも通りの)結論が出た。考えの過程をメモ。

人に見せる場合、あまり価値はない。推敲段階で冗長な表現は削るべきだと思う。
ただし、自分のための文章、文章を書くトレーニングや予備段階としてであれば意義がある。

「しょうもない」と思ってもまずは書いてみないと、タイピングなりペンの動きなり、筋肉の動かし方もスムーズでなくなってしまう。これはずいぶんと体の末端の話だけど、頭の中にある、瞬間的でパラレルで大容量な情報を一度記憶にバッファして、ちょっとずつちょっとずつ、順番に文字列として落とし込むという動作のためには、訓練が必要なのだと思う。

それにひょっとしたら、書き出す段階で、脳内から情報が引きずり出されるためには、膨大な(結局は無駄と判断され除去される)文字列とともに情報を書き出す必要があるのかもしれない。果物からエキスを抽出するためには本来は不要である水を追加して流しださせるような方法のような。最終的には煮詰めてエキスだけを取り出すところも似ている。(似てるから、脳もそうに違いないという予想は短絡思考だけどね)

だからグダグダな文字列でも書き出すべきなのだろう。しばらくの時間粘って、結局、酔っぱらいの寝言のような言葉しか出てこなかったとしても、それはそれ。少なくとも、まともな情報が出せなかった、ということが客観的に見えてくるわけで、書く前よりは、情報がないという自分の状態が認識できるようになる。たぶんそれは辛いことなんだけど。

21:06 [Comment:2]

comment

str 2009.10.31-05:07 Edit

私は自分の書きたいことが分からないときに、そうなることがあります。
書いているうちに書きたいことが分かってきて、その部分を削除し、文章をまとめたりします。

ko-wa 2009.11.02-00:43 Edit

たぶん私は、書きながら考える、と言うことができないんだと思います。しゃべりながらでもちょっと難しい。画面を前にすると、エディタのカーソルの点滅ばかり眺めてしまって(笑。 strさんは書くのが得意そう・・・