それにしても、文章を書くのが苦手だ。長い文章が書けない。
それなりに定期的にサイトに文書を書いているし、書いている同人誌にも文章ネタが多い。なのでこの感覚は理解してもらえにくいかもしれないけれど・・・。
いろいろ悩んで考えていたら、長文になってしまった。
これだけの文章が書ければいいじゃない!?と思われるかもしれないけど、これ書くのに3~4日掛かってるんです・・・。
文章書き。特にお堅い文書というか文語で報告書なんかを書くときなんて、ひどく苦労する。
たとえば、テキストエディターに向かってしばらく書いていると、頭がしびれる感覚がしてきて、書いていることがらが何のことだったか分からなくなる。眼では文章を追うものの、意識できる文章の範囲は前後数行になってきて、視野が狭くなる。目が痛くなる。漢字変換でカーソルを前後させて脳内で同じ言葉を何度も作り出して確かめてしていると、ついには、入力しているエリアの前後10文字ぐらいしか認識できなくなる。文の局所的な接合のおかしさばかり気になってさらに作業が遅くなる。そして疲労が蓄積して、注視している文字の一つが突然、拡大して見えたり。脳内ぐちゃぐちゃ。意識はへろへろ。
ここまで書いている時間にして1時間もたっていないのに。
個人的に不思議に思うのは、言葉で喋る場合はそれほど・・というかまったく不自由しないこと。何か込み入ったことを説明してくれ、と頼まれても、ええと・・とちょっと考えて、順に手書きでメモや図を書きながら説明していけばそれなりにわかりやすく説明できる自信だってある。
それを受けて、
「じゃあ、いまのを報告書にしよう」と言われると、図と箇条書きで説明する簡潔なレポートならともかく、文章原稿だと、もう、まったく、作業がダメになる。
いったい何が理由なのだろうか?単に書く努力が足りないだけなのだろうか?ならば具体的にどんな努力をすればいいのだろうか?
いくつか思い当たる問題点とその対処方法を考えてみた。
タイピング速度、文字入力の仕方の問題?
話すのはそれほど苦手じゃないのに、書けない。ということは、文字入力に問題があるんだろうか?まず思い付くのがキー入力。キーボードで文字列を入力することが自分にとってかなり負担なのかもしれない。
たとえば、言葉に話すときのスピードやリズム。言葉で話す速度は、だいたい1秒間に10音ぐらい。もちろんマシンガンのように休み無く話し続ける訳じゃないし、考えている時間もある。ただ、一度口を開いたら1段落相当の情報のひとまとめはいっぺんに話すだろう。そのときのスピードやリズムが重要なのかも?
それに対して、キーボード入力。タッチタイプで入力している速度は話すよりずっと遅いはずだ。タイピング入力速度を測ってみたら1分に350キー入力だった。エラーは2~3%ぐらい。平均的な速度らしいが・・・。
実際の文字入力は、ローマ字入力だったり漢字変換も必要だ。どのくらい掛かっているんだろう?。とりあえず新聞の記事を使って、キーボード入力と音読にかかる時間を比較してみた。627文字の日本語、仮名漢字交じり文だ。
キーボード入力:5分20秒(320秒)
音読: 1分36秒( 96秒) *意味を理解しながらの速度で読んで
キーボード入力だと3倍以上の時間が掛かってるようだ。
キーボードではミスタイプもあるし、漢字変換も間違う。入力してしまったミスを訂正するのには時間が掛かるし、なによりもその訂正をするために、カーソル操作をして、もう一度入力、と、発話のリズムが狂ってしまう。文字を直すのに注意が向くから、自分が今何を考えていたかとかも阻害されるだろうし。
キー入力していて思うのは、無意識に軽やかに打っているという感覚が、ない。タッチタイプをやるようになって10年は経つベテランであるにもかかわらずだ。何の思考もせずに目の前の文章をコピー入力しているだけでも、はぁはぁ、と疲れる感じすらする。なんというか、キーボード操作の体力がないということなのだろうか。高級キーボードを使うと変わるのかなあ?
まとめ(1)
・絶対速度の問題
・入力エラー訂正にかかる、注意の分散
・入力を続ける体力
対策:
・タイピングのトレーニングをする。速度、特にエラーを減らす方向性で練習を積む。タイピングゲームがいいんだろうか。
・まとまった量の文章をキーボード入力する練習もする。これは漢字変換も含めた練習であり、長時間入力する体力をつけるのが目的。
長いシリアルアウトプットが苦手、テキストエディタの特性?
文章をずらずらと書くのは苦手なのだけど、紙の上にアイディアや情報をむ作業なら簡単に思える。というか好きなぐらいだ。
たとえば、
・並列関係にある事柄を箇条書きしてヘッダをそろえて並べる
・時系列や因果関係、論理の流れ → 矢印でつなげて表現。
・情報のおおざっぱなまとまりと、その細かな説明という上位下位の関係
文字の大きさを小さくしてその詳細を字下げで書くだとか、
ツッコミとか問題点とかメモしておいたり
さらに、
・文字の大きさや濃度を変えれば重要性が一目瞭然。
だとか。
上記のことは図解だと簡単に描けるのに、テキストエディタでは困難。文字をシーケンシャル並べることしかできないからだ。文章を推敲するときにはそのシリアル性が大問題になる。エディターで文字を追加すると下の文章の位置が下にずれていってしまう。すると文字の塊として情報を空間的に把握してたものが崩れてしまう。今自分がどこにいて、何をしていたのか、分かりにくくなる。
対処方法:
・おおざっぱな枠組みは図解で書く。
・テキストエディタは思考の道具ではなく、情報を書き出すツールと考える。
・推敲は文書を印刷して赤ペンでやるなど、位置関係が崩れないものを利用する。
話し言葉と書き言葉
webやメールは話し言葉が多い。私か書く文章はいつだって話し言葉だ。話し言葉だと文章には感情がこもって、タイミングを表現する句読点やカッコ書きが増える。
ブログならいいけれど、提出する書類となると、TPOわきまえた「書き言葉」を使わざる得ない。
最初に書き出すときはまず話し言葉で書き下ろして、それをあとで書き言葉に直すの次善策だろうか。
しかし・・なぜ箇条書きは正式ではないのだろうか?口語体の文章はなぜ悪いのだろうか?文章の体裁として、長い文章のほうが頭がよさそうだから?文語体の方が威厳があるから?
綺麗な表現の方が、内容の正しさを期待させる効果がある、ってのは理解できる。だけど体裁を良くするために、わざわざ読みにくい「文章」形式を選ぶのだとしたら、それは合理的な行動ではないはず。
とはいっても、文章は作る人の立場ではなく読み手の立場で作られるべきものなのだから、私がどう思おうと仕方ないかなあ。
合理的な伝達手段でもある文書表現が、「美しい」「正しい」という時代になってくれたら嬉しいなあ。
文章では、絵を遠くから見る、縮小してチェックする、ような作業が難しい
これは文章の根元に関わる問題だと思う。
文章が短く一画面に収まる程度なら一度に見渡せる。しかし、書き出した情報が増えてくると全体の把握や整理に非常に苦労するようになる。
紙で図解する場合であれば、そもそもサイズに収まるように書き込むし、1枚で足りなければもう一枚取り出して横に並べればいい。
絵ならもっと簡単だ。縮小して見てみればいい。最初のコンセプトからずれていないかとか、ラフ絵を横に並べれて比較すればいい。
文章の場合、これに相当するチェックはどうやって行うのだろうか?全部をざっと目を通して、脳内にすべての文章を記憶して、全体の構造やバランスを脳内で判断するしかないのだろうか?全体が見通せないというのは、時系列データ、音楽や動画も同じだね。どうやるのだろう?文章で書かれてある内容をまとめて、要約文をつくってタイトルにして、これを画像で言うところのサムネイルと見なしてチェックするというのならできるかもしれいないけれど・・・。それを突き詰めたのがアウトラインエディター。アイディアプロセッサーというのもあるんでしたっけ。使い勝手がいいものがあったらいいなあ・・。
もちろん上記のことは、執筆するときだけの問題じゃあない。
読んでいる読者の立場としても、「この文章はあとどれだけ読み続ける必要があるのだろう?」「今言っていることは全体の中でどのくらいの重要性なんだろう?」という全体像が分からない。特に文章だけがずらーーーーーっと並んでいると、文書全体を読み切るまでまったく分からない。
それに徹底対策したものがテクニカルライティングというもので、最初の段落は全体のサマリー、重要なことは最初にとか、段落の第一文はその段落の要約、とかいう方法。でもこれは、書くべきことはほとんど確定した、文章の仕上げ段階の話しなんだよなあ・・。
全く対策が分からない。
ホントに細かいところまで話せているの?対面コミュの限界
言葉で会話すれば説明は楽だと、と言ったけれど、実はそんなのは当たり前なのだ。理由は、相互コミュニケーションであることと、時間的制約だ。
ためしに自分が説明してみれば、相手は理解できなかったら分からないと言うだろう。そうすれば言い直すことができる。相手が明示的にわからないと言い返してくれなくても、対面相互コミュニケーションであれば、表情やしぐさなどから伝わったかどうかの手がかりが得られる。そして、(ああ、今の言い方は良くなかったのだなあ)と学ぶこともできるので、必然的に上達できる。発話者にとっては、情報伝達が効率よいし、ほっといても上達できる。これは文書書きとは違うポイントだ。
また、会話で何時間も掛けて何かを説明するというシチュエーションはないだろう。たいてい15分程度にまとめて話すことが多いはずだ。すると伝える情報の量には限界があり、その時間内で伝えられる程度の情報量になる。少ない情報量を伝えればよいのだから、楽なのは当然だ。
相互コミュニケーションの問題は、1対1、あるいは聞き手の数が少数に限られること、そして聞く人が話す人に時間をコントロールされることだ。(電話されるよりメールされる方が助かる、という感覚)。だからこそ文書化することは重要なのだけど。
文章で書く場合、相手は特定できないのだから(ある程度は想定するけど)、分かっている人より、余りよく分かってない人、を対象にする必要があって、それなりに丁寧な順を追った説明が必要になる。もちろん興味をもつ事柄も人によって違うだろう。なので細かく長くなるのは仕方ない。
さらに、書く場合は読み手のリアクションが得られないので、ただ書けば上達するというものでもないところに、ライティングの難しさがある。
こればっかしは一人では解決できないね。添削の通信教育でも受けようか。
ついでに言うと、相手が見えないとやる気が出ない。という自分の弱点も思い当たる。
メールやサイトの日記のように、相手に具体的なイメージがあって、それに語りかけるように書いて良いのだったらいいのだけれど
誰が読むのか得体の知れないものだと思うと、手が動かなくなる。
せめてメールのように、誰か特定の相手をイメージしながら書くのが良いんだろうか。
!音読すると意味が分からない! 黙読で情報を収集することに最適化しすぎた?
カラオケで気づいたことなのだけど、文字を見て、それを言葉に置き換えて発声しているのに、私は歌詞の意味を理解していない。意味を理解するためには、頭のモードを切り替えて、歌詞を集中して「黙読」する必要があるみたいなのだ。
そういうものなんだろう、と思ってきたのだけど、どうやら多くの人はそうでもないらしい。歌を普通に聞きながら・歌いながら、歌詞を理解できるのだそうだ。
つまり、これって、「文章を音読すると、文章の意味が理解できない」ということになるなじゃないか?
もちろん音読そのものはできる。すらすら発音できる。カラオケと同じだから。そうなってしまったのは、脳が楽をしようとした結果なのだと思う。発音するだけなら記憶バッファは不要で、発音している文字の前10文字ぐらいを目で追っていれば十分。文全体、ましてや文章全体の意味を理解する必要なんてない。
そして本や文章を読むときは、黙読。黙読の方が早いしね。早いから文章の前の方と後ろの方の情報の記憶が両方とも鮮明で、全体の見通しが良くなるし。そもそも音読しながら内容を理解するシチュエーションって、めったにない。というか近所迷惑だし!
自分が音読しなくても、横で音読されても理解がじゃまされるぐらいだ。目をつぶって、読み上げる声に全力集中しないと!
そして自分が文章を書くとき。話すように書こうとするから当然、脳内では音声が作られている。
目の前には書いた文字が見えている(漢字変換とかもあるし、よくよく見る必要がある)。
書かれた文章、脳内にある情報、そして、音を頭の中で作りながら文字を打つという行動。自分で書いた文章が理解できないということになってのじゃあないか。なんということだ。
黙読に相当する、黙書、みたいなことができればいいんだけど、そんなこと可能なのかなあ。
・・・絵って「黙描き」だよなあ
・・・はっ!
紙に図として、文章を並べて書くのが簡単なのは、ひょっとすると、絵を描くような感覚で「脳内無言で」書いているからやりやすいのか。そういえばパソコンのプログラムを書くときも数式を書くときも、発音しないで書いてる!だから書きやすいのか?!?!
・文章を「黙書」できる人間を目指す
もしくは
・音読しながら文章を理解する練習をする
これが多分、自分にとって一番大きな問題のような気がする。がんばってトレーニングしたいな。音読と似たものに「書き写し」というのもあるらしいですね。絵の上達に30秒ドローイングはとても効果があったことから連想すると、書き写しもそれなりに効果が期待できるかもしれない。
がんばってトレーニングして、いつか、楽に素早く、文章が書けるようになりたい。情報をまとめて、アイディアを出して、それを文書としてどんどん出していける人間になりたい。
そうすればきっと、今感じている恐怖や不安もやわらぐだろうし、絵描きの自分として、文章書きに感じていたコンプレックスや嫉妬心だって、無くなると思う。
かがみはら あおい 2009.04.29-23:41 Edit
そんなあなたにマインドマップ
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